浦安のお祭り(例大祭)はおおむね4年ごとに、6月の中旬の土・日曜日に行われ、大小合わせて100台以上の神輿と山車が繰り出し、一大イベントとなっています。例大祭で担ぐ大神輿は、堀江に2基、猫実に2基、当代島に1基あり、ふだんは各地区の神社(清瀧神社・豊受神社・稲荷神社)に安置されています。
浦安の祭りは、もともと10月の各氏神様の祭礼として、あるいは、神社の改修の際などの臨時の大祭として各地区毎に行われていましたが、大正時代から神輿が登場し、6月に行われるようになりました。
半農半漁の町であった浦安は、祭り用品の便乗値上げをした商家をはじめ、寄付が少額の民家に突入するなど気性の荒い人が多く、暴れ神輿といわれるほど激しい祭りで昭和30年代に不況による財政事情の悪化や警備体制の関係から一時中断されました。
浦安のお祭りが復活したきっかけ
昭和48年10月に開催された浦安町民体育大会のプログラム中の仮装行列の時に、岡本家(さまよ)所有の神輿は(神社で入魂後)特別参加しました。
「さまよ」の御神輿は、親戚や子供たちが66人と多いということで、総本家の清吉が、 昭和5年に御神輿大と小を購入(後年、神輿を解体修理し、製作者の銘:藤五郎と判明)。
このように「さまよ」の神輿が、きっかけで、浦安の御神輿渡御が昭和49年6月に実に13年ぶりに復活しました。
明治22年(1889)4月、町村制の施行にともない、堀江、猫実、当代島の3村が合併して「浦安村」となり、明治42(1909)年9月に「浦安町」となった。東京に隣接しながら三方を海と川に囲まれた陸の孤島であったため、明治、大正、昭和も戦前までは大きな発展はなかった。しかし、昭和37(1962)年に漁業権の一部を放棄、昭和39(1964)年から海面埋め立て事業が始まると浦安は大きく姿を変えていった。昭和44(1969)年に地下鉄東西線が開通し、また昭和46(1971)年に漁業権を全面放棄して第2期海面埋め立て事業が行われた結果、総面積はかつての4.43平方キロメートルの約4倍の16.98平方キロメートルに拡大、急速に都市化が進んだ。
以来、昭和56(1981)年4月に待望の市制施行「浦安市」が誕生した。昭和58(1983)年には東京ディズニーランドがオープン、その後も周辺地区に大型リゾートホテルなどが建設され、国際色豊かな街になった。昭和63(1988)年12月にはJR京葉線も開通し、新浦安、舞浜の駅周辺の整備も進み、浦安は東京ベイエリアを代表する都市として発展を続けている。
堀江(ほりえ)
浦安市行政区画、19大字の一つです。
明治22(1889)年の村制施行時に浦安村を構成した3区画の1村(残る2村は猫実(ねこざね)村、当代島(とうだいじま)村)。
村名であった字名(地区名)「堀江」は、鎌倉時代、既にこの地に小さな港が作られていたことから堀江(ほりえ)村と名付けられたといわれています。
現在の堀江2・3丁目の境川沿い、フラワー通りを中心とした地区は長く浦安一の繁華街としてにぎわい、かつては演芸館や映画館もありました。
なお、かつて旧江戸川の対岸に堀江村の飛地がありましたが、明治28年印東京府南葛飾郡葛西村に編入されました。現在も江戸川区東葛西、南葛西に堀江という地名が残っています。